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瀧廉太郎 卒業式歌 [廉太郎17~20才]

明治33年(1900)2月に共益商社楽器店から発売された『新選國民唱歌』最後の6曲目に収録されています。(廉太郎20才)
有名な『花』を含む 組歌「四季」が同年11月、同じく共益商社楽器店から出版されています。

この曲は、7年前、平成23年(2011)に大阪大学大学院名誉教授 斉藤基彦氏により発見された曲です。
その時の記事などはこちらです。

この曲を発見された斉藤氏は、明治の唱歌をはじめいろんな研究をされています。
斉藤基彦氏のホームページ Moto Saitoh's Home Page

【豊太閤との類似】
この曲の冒頭部と末尾部が、その後作曲される「豊太閤」によく似ています。
冒頭は完全四度で、末尾は五度(豊太閤は声部が分かれていますが)で変化しています。
冒頭部はリズムも同じです。
2曲とも曲想が似ているので、もしかしたらこの曲がもとになっているのかもしれません。

比較3.jpg

作曲: 瀧 廉太郎
作歌: 失名氏



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『卒業式歌』 作歌 失名氏

一、
をさめしわざの数々は   我身の為と國のため
學びしことを本として   田つくりたくみあきなふも
いそしみはげみ身を立てゝ 人をも富まし世をとまし
やしまの民のさとき名を  外國(とつくに)までもかゞやかせ

二、
をさめしわざの数々は   我身の為と國のため
學びしことを本として   干ともなりつ城となり
力をつくし身をつくし   君をも守り世を守り
やしまの民のたけき名を  外國までもかゞやかせ
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「卒業式歌」の楽譜です。
卒業式歌楽譜.jpg

※一人で3回歌って多重録音しています。
2018/2/4録音

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【東京の廉太郎】
廉太郎が生まれたのは、現在の西新橋あたりです。
その後、父親の勤務により横浜、富山、大分とそして音楽の勉強のため再び東京へ。
結局、23年10ヶ月の人生の約半分は、東京ですごしています。
その東京でも何度か転居しているのですが、その内の一つ、現在の東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅の北、千代田区一番町に居住地跡の碑が建っています。





下の写真中央の交差点角に碑があり、実際に瀧廉太郎が住んでいたのは、写真右奥のマンションが建っている所だそうです。
(2018年1月25日撮影)
曲碑遠景.jpg

廉太郎のレリーフ、荒城の月の楽譜が刻まれた碑石があります。
曲碑.jpg

曲碑像.jpg

曲碑楽譜.jpg

【碑文】
趣旨
滝廉太郎先生は東京音楽学校卒業後文部省より音楽研究の為独乙留学を命ぜられた
作曲の才能は益々その輝きを加えこヽに日本管絃楽の始祖となった
世界的名曲「荒城の月」は此地即ち千代田区一番町六番地在住中の作である
依て東京芸術大学教授山本豊市先生に依嘱し此処に曲碑を建て永くその榮光をたヽえるものである
  昭和三十九年四月十日   曲碑建立委員会

【新しい説明文】
(都旧跡)
滝廉太郎居住地跡
 滝廉太郎は、この交差点から西に100メートル程の所(一番町六番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治二十七(一八九四)年ごろから三十四(一九〇一)年四月まで居住していました。
今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。
 滝廉太郎は明治十二(一八七九)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同二十七年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。
 明治三十四年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、同三十六(一九〇三)年六月二十九日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともともいわれています。
 滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年九月下旬には地元町内の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。
  平成十七年八月      千代田区教育委員会

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瀧廉太郎 四季の瀧 [廉太郎17~20才]

明治32年(1899)の作品です。


作曲: 瀧 廉太郎
作歌: 東 くめ


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『四季の瀧』 作歌 東 くめ

一、
みなぎり落つる瀧つ瀬を
おほひて咲ける山桜
散るは水泡(みなわ)か はた花か
わかちかねたる春の朝

二、
ひるは白妙さらせりと
ながめしものをいぶかしや
月影清き夏の夜は
黄金のあやも見ゆるなり

三、
世に珍しき仙姫(やまひめ)の
織れる紅葉の唐錦
瀧の白糸よりかけて
衣や縫ふらん秋の夕

四、
白玉とばしみなぎりて
落ちくる水のひびきさへ
かすかになりぬ昨日今日
氷柱や結びそめぬらん
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※2声の各パートを一人で3回歌って多重録音しています。
2010/8/14録音

瀧廉太郎 我神洲 [廉太郎17~20才]

明治32年(1899)11月に萩原太郎編「新撰小學唱歌」~中村鐘美堂発行~ の中で発表した曲です。(廉太郎20才)

これは、2年前に発表された「日本男兒」の終わり部分に8小節付け加えて編曲したものです。
今聞くとかなり勇ましい音楽です。日清戦争(1894~1895)直後のまだ若い日本の中で廉太郎も熱い思いがあったに違いありません。


作曲: 瀧 廉太郎
作歌: 砂澤 丙喜治


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『我が神洲』 作歌 砂澤 丙喜治

一、
我神洲の正大気 凝(こ)りて咲きけむ桜花
大和男兒の眞心は 朝日に匂ふや桜花
花はちりてぞ香を留む 人は死してぞ名を残す
行けや壮夫(ますらお)魁(さきが)けて 朝日の御旗翳(かざ)しつゝ

二、
轟然一発轟けり 見るや大砲火を吐ぬ
霹靂(へきれき)一声響たり 散るや味方の榴霰弾(りゅうさんだん)
天晴砕けぬ敵の陣 見事摧(くだ)けぬ敵の陣
朝日の御旗翳しつゝ 進めや進め壮夫よ

三、
百練経たる日本刀 抜くや秋水(しゅうすい)影寒し
大和男兒が此刀 提(かか)げ持ちて敵軍を
右に左に斬り捲(まく)る 萬事鞆絵(まんじともえ)に斬り回る
行けや壮夫魁けて 朝日の御旗翳しつゝ

四、
いばえの声も勇しや 蹄の音も勇しや
阿修羅の暴し騎馬の武者 土砂巻き揚るつむぢ風
敗れし敵の木の葉武者 乱れ散りつゝ崩れたり
朝日の御旗翳しつゝ 進めや進め壮夫よ
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暘谷城址ようこくじょう(大分県日出町)
瀧家が代々仕えた日出藩木下家の城で木下家初代は豊臣秀吉の妻、ねねの甥にあたる。
廉太郎の父もここ日出で生まれた。
先祖代々の墓もこの地にあり廉太郎も訪れたであろうことから、荒城の月とも少なからず関係しているという説もあります。日出町のHP
IMGP4101.gif
2010/8/3撮影


天守跡から望む別府湾
城の下がすぐ海で、ここで獲れるカレイは、 「城下カレイ」として有名です。
IMGP4094.gif
2010/8/3撮影


瀧廉太郎像(朝倉文夫作)
暘谷城大手門前に建てられています。
旧東京音楽学校奏楽堂などにあるものと同じものです。
IMGP4111.gif
2010/8/3撮影




※一人で3回歌って多重録音しています。
2010/8/4録音

瀧廉太郎 命を捨てゝ [廉太郎17~20才]

明治30年(1897)12月に雑誌「おむかく」に「龍水」の名前で発表した曲です。
「龍水」は、瀧の漢字を分けたものです。(廉太郎18才)


作曲: 龍水(瀧 廉太郎)
作歌者未詳


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『命を捨てゝ』 作歌者未詳


命をすてゝ、ますらをが
たてし勲功(いさお)は、天地(あめつち)の
あるべきかぎり、語りつぎ
いひつぎゆかん、後のよに


妻子にわかれ、親をおき
君がみためと、盡(つく)したる
そのいさをこそ、山ざくら
後の世かけて、なほかをれ


親兄弟の、名をさへに
かゞやかしたる、増荒夫(ますらお)は
この世にあらぬ、後もなほ
國のしづめと、なりぬべし
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【2010.8.3追記】
2番の歌詞の最後「なほかたれ」とされている楽譜がありますが、「大分県先哲叢書 瀧廉太郎 資料集」(平成6年 大分県教育委員会発行)掲載の原書では「なをかをれ」となっており今回もそれによりました。


※一人で3回歌って多重録音しています。
2010/7/31録音

瀧廉太郎 散歩 [廉太郎17~20才]

明治30年(1897)10月に雑誌「おむかく」に発表した曲です。(廉太郎18才)


作曲: 瀧 廉太郎
作歌: 中村 秋香


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『散歩』 作歌 中村 秋香

ほのぼのと
あけゆく空の朝風に
たもとかへして杖たづさへて
そこともいはずこゝかしこ
あなこゝちよや。

ほのぼのと
くれゆく野路の夕露に
もすそぬらして虫のねふみて
そこはかとなくにしひがし
あなおもしろや。
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※一人で3回歌って多重録音しています。
2010/7/31録音

瀧廉太郎 春の海 [廉太郎17~20才]

明治30年7月に発表した曲です。(廉太郎17才の時、今でいうと高校3年生です)
当時音楽学校の2年先輩であった 東くめ の作詩で後の「お正月」など瀧作曲の歌曲33曲中15曲は彼女の作詩です。

作曲: 瀧 廉太郎
作歌: 東 くめ


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『春の海』 作歌 東 くめ

和歌の浦の
春のあさけ
八重の汐路

風もなぎて
寄する波の
花もかすむ
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※一人で3回歌って多重録音しています。
2010/7/25録音

瀧廉太郎 日本男兒 [廉太郎17~20才]

瀧廉太郎が明治30年(1897)3月に初めて雑誌に発表した曲です。
(廉太郎17才の時、今でいうと高校2年生です!)
当時の日本は、日清戦争(1894~1895)直後で日本中がこの音楽のように高揚していたんですね。
瀧廉太郎も例外ではなく、いくつかの軍歌を作っていて、これもその中の一曲です。
出版された楽譜には「作曲は小山作之助先生の校訂に係る」と書かれており多少手が加えられていると思われます。

作曲: 瀧 廉太郎
作歌: 東 郊


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『日本男兒』 作歌 東 郊

日本男兒そは何ぞ、日本男兒そはたれぞ、
大砲小砲何かある、硝烟彈雨(しょうえんだんう)も何かある、
息の根たゆる笛の音は、消えても消えず君が名は、

日本男兒そは何ぞ、日本男兒そはたれぞ、
彈丸雨飛(だんがんうひ)のその中を、右往左往にかけめぐり、
さしも堅固の玄武門、敗りて植(た)てたる日の御旗。

日本男兒そは何ぞ、日本男兒そはたれぞ、
大喝一声(たいかついっせい)進めよと、叫びし声と諸共(もろとも)に、
屍(かばね)は空(むなし)く安城に、消えても消えず其誉(そのほま)れ、
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【2010.8.3追記】
1番の歌詞「大砲小銃」とされている楽譜がありますが、「大分県先哲叢書 瀧廉太郎」掲載の原書では「大砲小砲」となっており今回もそれによりました。


※一人で3回歌って多重録音しています。
2010/7/25録音
2010/8/19再録音

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